香りを守るため
十年の挑戦
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序章
熱海とだいだいの記憶
だいだい(橙)はインド・ヒマラヤ原産とされ、大陸経由で日本に伝わりました。平安時代には「唐たちばな」と呼ばれ、古くから愛され続けてきた果実です。「代々続く」の名の通り、正月のしめ飾りに欠かせない縁起物として、日本文化に深く根付いてきました。明るい果皮の色は、「だいだい色」という色名を生むほど。品格ある香りが特徴である一方、強い酸味と苦味があり食用には向かなかったものの、その存在は、古くから人々の暮らしや祈りに寄り添い、日本の長い歴史とともに歩んできました。
そして、熱海はかつて、だいだいの生産量で日本一を誇りました。家々にはだいだいの木が植えられ、晩秋から冬にかけて、山々が鮮やかな橙色に染まる景色が広がりました。しかし、時代の移り変わりとともに、その姿は次第に見られなくなっていきました。正月飾りには人工のだいだいが用いられるようになり、本物の果実が飾られることはほとんどなくなります。こうして、だいだいは少しずつ人々の記憶から姿を消していきました。
「子どものころ、正月の玄関先にはいつもだいだいがありました。でも、大人になるにつれて、それがどんどん消えていったんです。――私は、それが寂しかった。」 ――石舟庵 高木社長
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第一章
挑戦の決意
そんな折、高木社長は、熱海の山間でだいだいを育て続ける若い一人の生産者と出会いました。熱海で数少なくなっただいだい生産者として、この果実に人生を懸けた人物でした。
「橙は熱海の宝だから」
彼の農園を初めて訪れたとき、その言葉に心を打たれました。海を見おろすだいだい畑に実る果実をもぎ取ると、あたりに広がる香りは華やかで奥ゆかしく、心を揺さぶる力を秘めていました。
「この香りをお菓子に閉じ込められたら、絶対に人の心を動かせる。そう思ったんです。」
――石舟庵 高木社長
香料の世界では、だいだいと同系統の地中海産ビターオレンジの香りが、爽やかさの最高級とされています。しかし、「口にすれば酸味が強すぎて渋い」という大きな欠点も併せ持っていました。高木社長は10年前から、だいだいを美味しく加工できないかと、何度も試行錯誤を続けてきました。「やはり“食べられない果実”なのかもしれない」――そう諦めかけていた気持ちは、この日の香り体験によって再び動き出しました。 だいだいの香りの力をお菓子に生かすために、更に5年に及ぶ挑戦が始まったのです。
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第二章
香りと渋みの分離 ― 徹底した分析(1年目)
だいだいの加工について述べられた文献や情報は皆無に等しく、挑戦の第一歩は、「だいだい」という果実を部位ごとに分け、徹底的に調べることから始まりました。果皮、アルベド(白い綿)、砂じょうを包む膜、果汁、種子……。一つひとつを抽出しては、えぐみや渋み、香りの有無を確かめていきました。だいだい特有の清らかな香りが最も豊かに含まれていたのは、外皮の油胞でした。
一方で、アルベドや砂じょうを包む膜、種子からは強い渋みやえぐみが顕著に現れることが分かりました。果汁そのものは爽やかさを持ちますが、絞り方によっては渋みが引き出されてしまうことも見えてきました。香りを引き出し、渋みを抑えるために、温度や時間、溶液の種類を変えて繰り返された実験は数え切れないほど。ノートには、苦渋味と香りの出方が細かく記録され、やがて一つの事実が浮かび上がりました。――
香りの核は果皮に、苦渋味の主因は内部組織に集中している。「香りを守る層」と「制御すべき層」を分けて扱うべきだ。月日をかけた分析の末に、その仮説が明確に見えてきました。
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第三章
渋みを除去する独自技術の確立(2年目)
だいだいの香りと渋みを分けるために、高木社長は独自の加工技術を思いつきました。それは、だいだいの皮を「りんごの皮むき」のように、できる限り薄く剥き取るという方法です。この工程によって、果皮のアルベドと外皮を分けることが可能になりました。この考えをもとに加熱加工を試みましたが、まだ渋みとえぐみを“美味しい”と感じる状態まで取り除くことはできませんでした。それでも、試行錯誤を積み重ねた末に、石舟庵はついに渋みとえぐみを和らげる〈独自の技術〉を見出すことに成功しました。こうして、長年立ちはだかっていた「だいだいの苦渋味」という壁を乗り越えたとき、挑戦はいよいよ核心へと迫りました。
残された最大の課題は、だいだい本来の香りを弱めることなく、むしろ最大限に引き出し、美味しいお菓子素材に仕上げること。「渋みもえぐみも抑えられた。次は香りです。だいだいの魅力を最高の形で引き出したい。」 最初から目指していたゴールへ。挑戦は、香りというだいだい最大の資質を解き放つステージへと進んでいきました。
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第四章
香りを解き放つ
残された最大の課題は、だいだいの良い香りを守りながら、その魅力を最大限に引き出すことでした。ここからの挑戦は、単なる加工技術の改良ではなく、だいだいという柑橘の本質に迫る試みでもありました。温度や加熱時間が香りに影響することは、職人にとって常識です。
しかし、それを「香りを弱めず、むしろ引き出す技術」として確立するには、膨大な試行錯誤が必要でした。設備の改良、温度帯の緻密な調整、加熱時間の最適化。何度も壁にぶつかりながら実験を重ねた末に、高木社長がたどり着いたのが、独自の〈減圧加熱〉というアプローチです。水の沸点をコントロールするこの最新技術によって、通常の加熱では飛んでしまう香り成分を閉じ込め、だいだいが本来持つ清らかな香気をむしろ高めることができました。この革新的な手法によって、苦渋味を抑えながら香りを最高の形で解き放つことが可能になったのです。「これなら、だいだいの香りを未来に伝えられる。そう確信できたとき、10年以上におよんだ挑戦が実を結んだと感じました。」
――石舟庵 高木社長
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第五章
だいだい香る菓子たちの誕生
渋みやえぐみを取り除き、だいだい本来の香りを守りながら最大限に引き出すことに成功。残された最後の仕事は、この香りを最も輝かせる“かたち”を生み出すことでした。「いい菓子をつくるためには、素材同士のマッチングが何より大切です。せっかく最高の香りを引き出せても、それに合う“相棒”がいなければ完成とは言えません。」――石舟庵 高木社長
果実の香りと響き合う素材を探すために、果実、乳製品、ナッツ、スパイスなど、数え切れないほどの組み合わせを試しながら、だいだいの香りが最も自然に、最も美しく生きる菓子を探りました。その試行のなかで生まれたのが、しっとりとした生地に深みを添える「ショコラマドレーヌ」、
果皮の香りをやさしく包み込む「橙しぐれ」、そしてやわらかな甘みの中にほのかな酸味が立ちのぼる「和くず氷」。
いずれの菓子にも共通しているのは、香りが主張しすぎず、それでいて一口ごとにだいだいの存在がふっと感じられる“調和”の妙です。それは単なるフレーバーづくりではなく、香りと味わいを対話させるようにして見つけた関係性。10年の歳月をかけて磨かれた香りが、今、菓子というかたちを得て人の記憶に残っていく――「だいだい香り」の物語は、香りの完成から、味わいの創造へと静かに広がっていきました。



